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2006年9月11日 (月)

ベルリン国立歌劇場のアニア・シリア

松岡究です。今日はダブルヘッダー。昼の歌曲の演奏会の件は13日にアップします。夜の公演はちょっと難しいパフォーマンスとモノオペラでした。

演目   ロバート・ウィルソン:Deafman Glance(聾唖者の視線)

      シェーンベルク:モノドラマ「期待」

    ある女(Eine Frau):アニア・シリア

    もう一人の男:ロバート・ウィルソン

    その他2人の男の子と2人の女の子

    指揮:ダニエル・バレンボイム

まず50セントで買えるプログラムを読んでびっくり。そこには(英語でwithout musik and dialogue)と書かれているではありませんか。会場は本番の5分前にようやく開場。すると舞台には4メートル四方の正方形の小さな舞台が2つ。そこに黒装束のマネキンが2体。男の子の座ったマネキンが2体。女の子のネグリジェで寝ているマネキンが2体。会場にはノイズと思われるような音がずっと鳴っていてそれがクレッシェンドしてきて耳を劈くかと思われるところで客席が暗転、音は寸断されます。するとそのマネキンだと思っていたのがアニア・シリアと作者のロバート・ウィルソン。それから約50分間音もない台詞もないサイレント劇が始まりました。やったことは、単に「その2人がほぼ対象に動き男の子と女の子をナイフで殺す」という凄惨な場面ですが、普通の動きだとものの20秒もあれば成立してしまうことを物凄いスローモーションで、そう50分かけてやるわけです(体を一回転させるのに3分くらいかけてやるわけです)。音も台詞もない、つまり聾唖者の視線から見えたこと・見えることの具現です。ですから観客はそこから聾唖者が想像しうるものを全て想像し得ないとつまらないということになるのでしょうね。音や台詞のない世界がどういうものか、わざと観客に追体験させるようなことだったのでしょうか。場面が超スローモーションで動いていく時間の中で、観客に何を感じさせ、感じてもらうか。今冷静に名って考えると、実際にかなりイマジネーションを働かせて見ていないと苦痛になるのではと思われます。

この心理劇が終わると、ピットにオーケストラが入り休憩無しで「期待」が演奏されました。「期待」というモノドラマも難しい心理劇です。名もない女性が森へ入り、そこには愛する人の死体が。シェーンベルクは曲の終わり方を大変中途半端にわざとですが終わらせています。つまり森へ入った後そこから出たのか出ないのか、死体を目の当たりにしてそれをどうしたのか、ということは観客自らが考えることだったのでしょうか。

ドイツ人はどうしてこんなに考えさせるものを作りたがるんでしょうね。そう考えさせることがこのプログラミングの罠に私は見事に嵌っているんだということでしょうか。

         hakaru matsuoka

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