« ベルリンドイチェオパー「アラベラ」 | トップページ | ドイツの食べ物について 1 »

2006年3月 1日 (水)

ケント・ナガノ指揮ドイチェス・シンフォニーオーケストラ定期

松岡究です。もう2月が終わってしまいましたね。早いですね。「時間よ、止まれ」と言いたくなってしまいます。今日はDSOと簡略して言われるドイチェス・シンフォニー・オーケストラの演奏会です。指揮はここの音楽監督のケント・ナガノ。曲目はワーグナー:「ローエングリン」から第1幕の前奏曲、シェーンベルク:5つの小品、ワーグナー:トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死(MS:ワルトラウト・マイヤー)休憩を挟んでブラームス:交響曲第4番というプログラム。

私はケント・ナガノという人も、この1年結構聴いてきたつもりです。そしていつもかれの音楽が掴みきれない、私にとってずっと納得いくものがというか、腑に落ちるものがなかったというか、そんな感じだったんです。でも今日なんとなくそれが判った気がしました。一言で言うと、「彼ほどいい意味で日本人的な音楽家はいない」ということです。確か日系3世だったと思うんですが、日本人でありながら日本には住んでいないというところから、必然的に日系人の方々はそのルーツを大切にする、大和魂を大切にするという生き方になりますよね。そう例えばユダヤ人たちが何千年も迫害を受け続けてきたのに、自分たちの民族的誇りを失うどころか却って強めてきたのと同じように、彼は日本人よりも日本的な内面を身につけているんではないか?どういうことかというと、彼にはずっと動と静の静、陽と陰の陰の部分をずっと感じ続けてきたように思うんです。そして彼の音楽は必ず「無」の部分があると思うんです。それが彼の最大の特徴ではないかと。例えば今日のローエングリンの出だし、本当に何もないところから生まれてくる音なんですね。他の指揮者や音楽家は最初から有であるんじゃないかと思うんです。無から始まるからある意味でとても透明感があって、ある意味でとても無性格。決してそこには秘められた激情や哀愁などの感情はないんです。徹底的に「無」なんじゃないかなあ!それが音楽の持っている美と結びついてこの演奏はすばらしかったです。

このやり方は思い返せばどの作品をやるときもそうだったような気がするんです。ブルックナーの6番、アルペンシンフォニー、そして必ず彼がプログラミングする現代音楽。皆そうでした。ですから特に現代音楽においてはいつも一種の緊張感が生まれますし、彼の得意とするところじゃないかと思います。シェーンベルクやウェーベルンなんか無から生まれるような、そんな音楽をいっぱい書いてる気がしませんか?その反面感情で音楽が支配されることはないので、物足りないところも出てきます。トリスタンはそのいい例でした。マイヤーは本当に未だに第1級の声を持っていました。しかしケントの音楽運びが感情ではないので、なんとなく違和感があるんです。魂を揺さぶられることはありません。ワーグナーのあのカタルシスは微塵もありません。次のブラームスもそうです。実に丹念に音楽は作られているんだけど、4番特有の哀愁、孤独、嬉しさ、激情といった感情が見えないんです。でもこのような個性を持った人は皆無でしょうね。だからこそ彼には価値がある、ということだと思います。音楽家は皆、動であり陽の人がほとんどだと思います。その最高峰がサイモン・ラトルではないでしょうか。

サイモン・ラトルはイギリス人、ケントは日本人、ベルリンの主なオパーとオケのチーフコンダクターは皆所謂外人です。ドイツ人は一人もいません。このことについていつか述べてみたいと思います。

追伸 実は今日のシェーンベルクの5つの小品は私が知っているものとは違ったんです。普通は大管弦楽で演奏されるんですが、今日は弦5部の5人、木管一人ずつ、ピアノ、ハーモニュームの計11人だったんです。ひょっとしたらプログラムが変更になっていたかもしれないし、このような作品が同じ題名で存在するのかとどうか、調べて後日報告いたします。

       hakaru matsuoka

|

« ベルリンドイチェオパー「アラベラ」 | トップページ | ドイツの食べ物について 1 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ケント・ナガノ指揮ドイチェス・シンフォニーオーケストラ定期:

« ベルリンドイチェオパー「アラベラ」 | トップページ | ドイツの食べ物について 1 »